History

 

1920-1930 | personalities 人物そしてドラマ

1920-1930 ― エンジンの英雄時代
ヴィットリオ ヤーノ(1891〜1965年)

「天才」

トリノ出身のヴィットリオ ヤーノは、エンツォ フェラーリの仲介によりフィアットから引き抜かれ、1923年にアルファ ロメオに入社。ただちに7年間負け知らずの伝説的な車であるP2を設計する。さらに、29、30年の「ミッレ ミリア」を圧倒的な速さで制した6C 1750、そして32年以降、当時の偉大なドライバー達に愛されるP3を創り出した。37年にアルファ ロメオを退社。

担当モデル
P2(1924年)
6C 1500(1927年)
8C 2300(1931年)
Tipo B(P3)(1932年)
6C 2300(1934年)
8C 2900 A(1935年)
8C 2900 B(1937年)

ジュゼッペ カンパリ(1892〜1933年)

「エル ネゲール」

1892年ローディ出身。自称「オペラ歌手」「料理マニア」であったカンパリは、アルファ ロメオに大きな成功をもたらした偉大な初代チャンピオンであった。体が大きく、口髭をたくわえていたカンパリは、1924年リヨンで優勝。28年と29年には「ミッレ ミリア」で優勝。タツィオ ヌヴォラーリとともにモンツァの「イタリアグランプリ」でも優勝した。41歳になった33年には引退を考えていたが、最後のレースとなるはずであったモンツァで悲惨な事故が起こる。ボルツァッキニと一緒にマセラティに乗っていたカンパリは、コースから飛び出し、二人とも死亡する。

アントニオ アスカーリ(1888〜1925年)

「皆の人気者」

1888年にマンツアで生まれたアスカーリは、最初はメカニックとして、その後「エンジン」愛好家として世界を旅したが、最後に夢を実現してレーサーとなった。1921年カンパリと組んで「パルマ ポッジォ ベルチェートレース」に優勝し、24年にはP2のデビューレースで優勝。再び「ポッジォ ベルチェートレース」、さらにスパ フランコルシャンでの「ヨーロッパ グランプリ」でも優勝を飾る。そしてモンルリのレースで22回目のラップの時、その悲劇は起こる。アスカーリが駆る速すぎたP2が、撤去されずに残っていた防護バリアに接触し、何台かの車が横転、アスカーリは帰らぬ人に。

ウーゴ シヴォッチ(1888〜1925年)

ウーゴ シヴォッチは、生涯アルファ ロメオの一員であった。彼は、アスカーリ、カンパリ、フェラーリとともに、1920年代前半のレーシングヒーローだった。21年の「タルガ フローリオ」で4位、22年のモンツァで4位、そして23年の「タルガ フローリオ」で1位になる。しかし、メロージの設計によるP1のテストドライバーを務めていた25年、テスト中に道路から飛び出す事故にあい、帰らぬ人となった。

ガストーネ ブリッリ ペーリ(1893〜1930年)

「初の世界チャンピオン」

黄金のような魂と、モーターサイクルレース ツアー中の事故で受けた傷が残った顔。ブリッリ ペーリ伯爵、通称「ブリッリ」は、第一次世界大戦が終わるとすぐにドライバーとなった。1925年、アルファ ロメオの一員としてモンツァで飾った「イタリアグランプリ」での勝利が、国際レースでの初めての優勝だった。その後レーサーとして活躍したが、30年、グランプリに向けた練習中、トリポリで亡くなった。

エンツォ フェラーリ(1898〜1988年)

「跳ね馬のマークのもとに」

優れたドライバーであり、有能な外交官であり、偉大なビジネスマンでもある。エンツォ フェラーリとアルファ ロメオの関係は、長く複雑なものである。40-60 HPで「タルガ フローリオ」に参加した1920年代、フェラーリは最初のキャリアをドライバーとして築く。この時、総合2位でゴールし、その後10年にわたって成功を収め続ける。しかし、フェラーリは、戦略と組織の面でとくに重要な役割を果たした。20年代前半からすでに独立精神を示し、29年には「スクデーリア フェラーリ」を創立。これは32年にアルファ ロメオのワークスチームとなった。その機能を終えた38年には、名称を「アルファ コルセ」と変えた。フェラーリは、その後まもなくモデナへ赴き、アルファ ロメオとの関係は永久に途絶えることとなった。