この年をきっかけに、アルファ ロメオはレースシーンに金字塔を打ち立てる。カンパリが「ムジェッロ」で優勝。翌21年にも優勝を果たしたカンパリは、2位のエンツォ フェラーリ、3位のウーゴ シヴォッチとともに、チームメートで表彰台を独占する。この年カンパリは、ガララータの「1kmスピードトライアル」でも、14年にメロージが設計した1914 Grand Prixで優勝を飾った。
20-30 HPのES Sportがレースデビュー。アスカーリとシヴォッチがドライバーを務め、「パルマ ポッジォ ベルチェートレース」の4.5リッタークラスでは、1位と2位を占めた。
思い出の年―。白地にクアドリフォリオ(四つ葉のクローバー)を描いた旗のもとに、一流ドライバーがチームに結集した。「ムジェッロ」でのマセッティの優勝をはじめ、RL Racingが勝利を次々と手にした。23年、RLをベースにした車を使ってアルファ ロメオは、シシリア島で行われる有名なレース「タルガ フローリオ」に参戦する。ドライバーの顔ぶれは、マセッティ、カンパリ、アスカーリ、シヴォッチ、フェラーリであった(白地の三角形の中に四つ葉のクローバーを描いた「クアドリフォリオ」のマークは、この時初めてシヴォッチの車で使われた)。結果、シヴォッチが優勝。カンパリは、完走直前ガソリン切れでリタイア。アスカーリの車は、トラブルが原因でフィニッシュラインから200メートル手前で止まってしまったが、メカニックとエンツォ フェラーリに助けられて2位に入賞した。アスカーリは、その後クレモナで再び優勝。シヴォッチもモンツァのツーリングレースで優勝を飾るが、9月、グランプリカー「P1」のテスト中に、モンツァのコースで帰らぬ人となる。23年6月17日には、ラヴェンナのサヴィオサーキットで、エンツォ フェラーリが勝利。 レースを観戦していたフランチェスコ バラッカの両親は、黄色の地に跳ね馬を描いた盾形をした紋章をこのアルファ ロメオのドライバーに贈呈する。彼らの息子であるフランチェスコ バラッカは、第一次世界大戦時に活躍したイタリアの有名な飛行士で、自分の戦闘機の胴体に同じ紋章を描かせていた。フェラーリは、当時をこう回顧する。「私が1923年にラヴェンナで開催されたサヴィオサーキットで初めて優勝した時、あの戦争の英雄の両親に会いました。父親のエンリコ バラッカ伯爵と母親のパオリーナ伯爵夫人です。ある日伯爵夫人から『息子の暴れ馬をあなたの車に乗せてみたら? 運が回ってくるかもしれないわよ』と話がありました。今でもバラッカが私に紋章を渡している写真を持っています。彼の両親のサインが入った写真です。馬は初めからずっと黒です。ただ、背景にはモデナの色であるカナリアイエローの付け加えました。」
1924年は、あの伝説の「クアドリフォリオ」をつけた赤いP2がデビューを果たした年である。このモデルをパルマ ポッジォ ベルチェートのコースで最初にテストしたのはアスカーリであった。アスカーリが駆るP2は、クレモナサーキットで圧勝してデビューを飾る。しかし、最初のメジャーな優勝は、リヨンで開催された「ヨーロッパ グランプリ」であった。カンパリが平均時速114 km/h、7時間5分30秒のタイムで勝利を獲得。デレンジェ、サンビーム、ブガッティをすべて打ち負かしたのだ。10月には「イタリア グランプリ」がモンツァで開催された。アルファ ロメオからは4台がエントリーし、カンパリ、アスカーリ、ワグナー、ミノイアがハンドルを握った。結果は、アルファ ロメオの圧倒的勝利でトップ4位を独占、平均速度158.99 km/hでアスカーリが優勝を飾った。5位のシュミットがゴールしたのは、その45分後であった。同年の「タルガ フローリオ」では、アスカーリのRLが勝利をほぼ手中に収めたと思われた時、フィニッシュラインの前100メートルのところでブレーキをかけた車が、後ろ向きになって止まってしまった。ドライバーもメカニックも、エンジンを再始動できなかったため、上り坂にもかかわらず、車を押して2位でゴールインした。しかし、観客の援助を受けたと裁定され、チームの入賞は後に取り消された。
P2の快進撃は続く。1925年、アスカーリとカンパリはスパ フランコルシャンの「ヨーロッパ グランプリ」で圧勝した。レース中、ドライバー達は観衆の過激さに半ば抗議の意を込めて、メカニックが車を磨いている間、ヤーノのテーブルに立ち寄って軽食をご馳走になる。それほどアルファ ロメオには、余裕があったのである。アスカーリは、フランスのモンルリでトップを走っていたが、雨の中、道路から飛び出すという事故にあい、病院に運ばれる途中で死亡した。弔意を表してアルファ ロメオはこのレースをリタイアし、カンパリもピットへ戻った。アスカーリの不慮の死にもかかわらず、アルファ ロメオはガストーネ ブリッリ ペーリの運転によってモンツァで初めての世界タイトルを勝ち取る。この時の勝利を記念して、エンブレムに月桂樹の冠のオーナメントがつくようになった。
1928年、カンパリとランポーニの運転で6C 1500 Compressorがデビュー。27年にスタートした伝説的なレース「ミッレ ミリア」で優勝した。29年の「ミッレ ミリア」でも6C 1750で優勝した。
アルファ ロメオは、1930年の「ミッレ ミリア」でも優勝を飾る。このクラシックレースでは、ヌヴォラーリとギドッティが1位を獲った。黒人のライバルであり、仲間でもあるヴァルツィが後に続いていたが、最後の一周で「空飛ぶマントヴァ人」ことヌヴォラーリに追い越された。ヌヴォラーリはこのレースで100km/hを越える平均時速を初めてマークし、スピード新記録を樹立。ヴァルツィはこの年の「タルガ フローリオ」では旧型のP2を駆って優勝を飾り、リベンジを果たす。ドライバーの優れた技能があってこその優勝だが、これは、ヤーノが設計した栄光ある数々のモデルの最後の勝利となった。「タルガ フローリオ」では、ヴァルツィは炎に包まれながらも優勝。「最終ラップで、30秒遅れでキロンを追っていたヴァルツィのP2は、燃料が切れてきて、エンジンが喘ぎ出した。ヴァルツィのメカニックは石油缶をひっつかむと、まだ車が止まらないうちにタンクに油を注ごうとした。少量の燃料が灼熱した排気管にかかり、たちまち炎が車の後部を包んだ。ヴァルツィは、車全体が燃えてしまわないように車を動かそうとし、一方、メカニックは座席のクッションを使って火を消そうと躍起になっていた。炎はまもなく消火され、ヴァルツィはキロンに1分48秒の差をつけて何とか優勝した。この優勝はヴァルツィにとって一番思い出深いものとなり、また、P2による最後の優勝ともなった」