History

 

1940-1950 | personalities 人物そしてドラマ

1940-1950 ― 戦争と復興
オラツィオ サッタ プリーガ(1910〜74年)

「サッタの指導のもとに」

1910年にトリノに生まれた航空機エンジニアのサッタは、38年にアルファ ロメオに入社。グランプリカーの158、159のデザインを指揮した。アルファ ロメオが、第二次世界大戦後間もない時期にふたつの世界タイトルを初めて獲得できたのは、彼の功績である。メカニックでもあり、有能な管理者でもあったサッタは、戦争中もアルファ ロメオに留まった。彼が手がけた量産モデルには、1900、Giulietta、Giulia、1750、Montreal、Alfetta、それに各モデルのレースバージョンがある。

サッタのデザイン責任者就任以後に制作された主要モデル
1946年: 6C 2500 Saloon 'Freccia D'Oro'(金の矢)
1948年: 6C 3000(6気筒/プロトタイプ)
1950年: 1900(大量生産された初の量産モデル)
1952年: 1900 C52 Disco Volante(空飛ぶ円盤)
1954年: 2000 Sportiva
1954年: Giulietta Sprint
1954年: “Romeo”(バン)
1955年: 1750 Competition
1957年: 2000(4気筒/1,975cc)
1962年: 2600(6気筒/2,584cc)
1962年: Giulia TZ,(4気筒/1,570cc)(トゥーリング設計)
1965年: Giulia GTA
1966年: 1600 Spider“Duetto”(ピニンファリーナ設計)
1966年: Spider“4R Zagato” (ザガート設計)
1967年: 33/2 Liters
1968年: 1750 Saloon
1968年: GTA 1300 Junior
1969年: 33/3 Liters
1970年: “Montreal”
1970
〜71年:
1750/2000 GT Am
1970年: 2000 Saloon
1972年: Alfetta
ウィルフレード リカルト(1897〜1947年)

バルセロナ出身のスペイン人エンジニアであるリカルトは、1936年にテストと技術に関するコンサルタントとしてアルファ ロメオに入社。40年には、総括管理の技術コンサルタントに任命され、特別研究部門とデザイン部門の監督という責務を45年まで務めた。彼は、16気筒エンジン搭載の162、水平対向12気筒エンジン搭載の512、163 2シータスポーツ、ガッツェッラプロトタイプ、ふたつの航空機エンジンを造り出した。戦後はスペインに戻り、有名な「ペガソ」のデザインを担当。その後シートの製作も手がけた。

リカルトがデザインを担当したモデル
1939年: 162―1シーターレーシングカー/16気筒/2,995 cc(プロトタイプ)
1940年: 512―1シーターレーシングカー/12気筒/1,490 cc(プロトタイプ)
1941年: 163―スポーツクラス2シーターレーシングカー/16気筒/2,995 cc(プロトタイプ)
1943年: 「Gazzella」―6気筒/1,954 cc/プロトタイプ航空機エンジン
1940年: Alfa 1001/8インバーテッドV型/1,100hp(プロトタイプ)
1941年: Alfa 101/28気筒(7列x 4)/2,000hp(プロトタイプ)
ジョアッキーノ コロンボ(1903〜87年)

レニャーノ(ミラノ県)出身の技術者であるジョアッキーノ コロンボは、1930年代、40年代におけるアルファ ロメオのレース活動での勝利に大きな貢献を果たした。24年にポルテッロ工場に着任すると、その後はヤーノと密接な仕事を行い、「スクデーリア フェラーリ」の責任者となった。モデナ(フェラーリの工場があった)では、あの伝説的な158、308、321、316を設計。38年にはアルファ ロメオに呼び戻され、戦後は「空飛ぶ円盤」と称された「Disco Volante(ディスコ ヴォランテ)」を含む幾つかのプロトタイプのデザインに協力した。45年にはフェラーリに戻り、フェラーリ初の12気筒 1500 ccモデルを手がける。

ニーノ ファリーナ(1906〜66年)

「法廷服からつなぎ服に」

1906年にトリノで、ピニンファリーナの従兄弟として生まれたジュゼッペ(あだ名はニーノ)ファリーナは、アルファ ロメオの1シーターを駆って第1回F1世界選手権のチャンピオンとなった。法律の学校を卒業した彼は、法廷よりもサーキットを選んだのである。30年、アルファ 1500 ccで出場したデビューレースでは、車がスピンしてリタイアし負傷するが、それに挫けず33年レースに復帰。友人となったヌヴォラーリに招かれアルファ ロメオの公式ドライバーとなった。36年と37年の「ミッレ ミリア」では、2位に入賞する。ヌヴォラーリがアウトウニオンに移った後は、アルファ ロメオの中心的ドライバーとして活躍する。第二次世界大戦後、再びレースに復帰し、158を駆ってジュネーブで勝利。「スタイル1950」での優勝により、初めての世界タイトルを手中にする。シーズン中に獲得した30ポイントは、ライバルでありチームメートであるファンジオを3ポイント上回るものだった。翌51年も優勝を狙うが、4位に終わる。アルファ ロメオのレースの撤退後もフェラーリでレースを続けたが、66年交通事故で帰らぬ人に。

ルイージ ファジォーリ(1898〜1952年)

ファリーナとファンジオに続く、3人目の「F」。
ファジォーリはオジモ(アンコナ)に生まれ、1933年にアルファ ロメオに入社。50年に再入社し、51年ランスで開かれた「フランス グランプリ」でファンジオとともに優勝した。モナコで事故に遭い、その後52年に死亡した。