alfawoman 2020.08.25

ウーマノミクスの提唱者・キャシー・松井氏の描く未来

アメリカの大手投資銀行であるゴールドマン・サックス証券で、現在は副会長兼チーフ日本株ストラテジストとして活躍しているキャシー・松井氏は、1999年に女性という資産を活用することが日本の経済活性化につながるという概念“ウーマノミクス”を提唱し、ジェンダーダイバーシティ推進の必要性を示唆した。世界でも注目を集めるスーパーウーマンである松井氏に、FCAジャパンマーケティング本部長のティツィアナ・アランプレセ氏がインタビューを実施。松井氏の情熱の源を探った。

学んできたことを次の世代に与えたい

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▲キャシー・松井氏

キャシー・松井氏は、1994年にゴールドマン・サックス証券会社(以下、GS社)に入社。現在、同社で副会長とチーフ日本株ストラテジストを兼任するだけでなく、2008年に設立されたアジア女子大学の財団理事会メンバー、日本癌学会の乳癌基金のアドバイザリーメンバーを務めるなど、さまざまな分野で女性支援にも尽力している。また、一男一女の母親でもある。アランプレセ氏は彼女のことを“スーパーウーマン”と評したが、まさに現代を代表するスーパーウーマンのひとりだ。

彼女はどのようにして自己実現を成し遂げたのだろうか。

「私はたまたま日本にいて、たまたまこの業界に入り、たまたま健康な家族がいます。自分の両親のことを考えると、自分がどんなに恵まれた環境にいるかを実感します。奈良県出身の両親は2人とも高卒で、父はポケットに1万円札を1枚だけ入れて、横浜港から船に乗って、10日間かけてアメリカにやってきました。英語がわからないまま農場で働き、仕事が落ち着いた4年後に母と姉を呼び寄せます。母は農業をしながら4人の子どもを育てました。若い頃はわかりませんでしたが、古い写真を見ながら両親の苦労に思いを馳せます。それに比べて、私の仕事は本当に楽。ヘルパーさんもいます。文句を言う立場にありません。だからこそ、私が学んできたことを次の世代に与えたいという気持ちがあります。アジア女子大学の支援もその一環です」

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▲アジア女子大学 クラスワークの様子 ©️アジア女子大学

2008年、バングラデシュの海港都市チッタゴンに開校したアジア女子大学は、アジア・中東域の女学生から大卒者のいない家庭出身者を優遇し、母国でリーダーとなる人材を育成する大学だ。松井氏はハーバード大学時代の後輩からの依頼をきっかけに同大学の創設に携わり、前述のとおり理事会メンバーを務めている。

松井氏はハーバード大学卒業後、90年バークレイズ証券を経て94年に29歳の時にGS社に入社した。

「投資銀行というより、通常のマーケット分析に興味があったんです。データやリサーチを元に客観的に分析を行い、顧客に自分のアイデアとして提案できることに魅力を感じています」

アナリスト/ストラテジストである松井氏の仕事は、国内外の投資家に判断材料を提供するため、株式市場を分析し、レポートを行うことだ。

「私は文章を書くのが好きですし、人と話すのも好きです。その特性をいかせる仕事なら長く続けられると思い、この仕事に就きました。また、お客様に私の考えを伝えても、お客様は100%納得するわけではありません。そういった時にお客様と議論をするのもまた面白いんです。お客様からたくさんのことを学べるのもこの仕事の魅力です」

顧客から信頼を得るための“挑戦”

評価が明確なことにも魅かれたという。

「アナリストは四半期に一度、国内外の機関投資家から評価が来ます。ほかのアナリストとともに評価される、評価システムの透明度の高さも私には向いています」

順位づけされ、それが可視化されることが「私にとって大事なことだし、自分に向いている」と、松井氏はきっぱりと言い切る。

「とはいっても入社した時は経験もなかったですし、唯一の女性ストラテジスト、しかもアメリカ人である私は、日本では外国人です。3つのハンデを抱えながら、最初の数年はどうやってサバイブしていくかに必死でした」

そこで松井氏は、「他のアナリストと同じやり方ではだめ。差別化をはかり顧客から信頼を得るためにも、ほかのアナリストが扱ってこなかったテーマのリサーチを行う」という挑戦をする。

IMG_0126 ウーマノミクスの提唱者・キャシー・松井氏の描く未来

通常のマーケット分析と並行して、企業年金の積立金不足問題をテーマに分析を行い、「やっと注目を集めることができました」
そして1999年、“ウーマン”と“エコノミクス”の2つの言葉を合わせ、“ウーマノミクス”という概念を提唱。簡単に説明すれば、女性の労働力上昇は日本経済を活性化するウーマノミクスという概念は投資テーマになりうるという考え方だ。この概念を提唱してから20余年、松井氏は日本経済と女性の社会進出の動向をどう見ているのだろうか。アランプレセ氏は、“ウーマノミクス”が誕生した経緯について尋ねた。

政策を提言しようという意図はなかった

「長男は3歳。2人目の子どもがお腹にいた頃です。当時の日本はバブルが崩壊し、株価や土地の値段がデフレになっていました。金融システムが危機的な状況で国の財政赤字も膨んでいて、日本の人口問題も表面化してきており、海外の投資家からは日々日本市場への懸念が多く寄せられていました。
4カ月間の産休を経てフルタイムで職場に復帰したのですが、日本人のママ友は仕事に復帰しない人が大半。戻っても非正規での復帰でした。そんな状況と、仕事で考えていた日本市場への懸念がリンクし、ここに解決策があるのではないか、今フルに活用されていない人材を活用すれば日本の経済は成長する、もっと明るいシナリオを描けるのではないかと考えたのです」

13年、第2次安倍政権は“ウーマノミクス”を政権の成長戦略の重要な柱と位置づけるが、松井氏は「政策提言をしようという意図はまったくありませんでした。単純に女性がもっと活躍すれば女性が得る所得が増え、その所得を消費に回すことができる。そして企業は、その売り上げによる利益を設備投資や従業員の給料に回すことができる。面白いテーマではないかと考えただけなんです」と笑う。

「長年、あまり注目されていなかったので、ウーマノミクスを国の成長戦略に盛り込まれたことに、誰より驚いたのは私だと思います。政府がジェンダーダイバーシティ(人材の多様性)という概念を初めてテーマに取り上げ、人権、平等問題だけではなく、経済や企業の成長に不可欠だと知らしめてくれたことは大きかったと思います。日本経済新聞にはピンク色のボーダー付きのページができたし、ジェンダー問題がニュースにも取り上げられるようになり多くの人の意識が変わりました」

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この20余年で、女性をとりまく環境は確実に変化していると、松井氏は力を込める。

「大きく変化したことが3つあります。1つ目は女性就業率。1999年の日本の女性就業率は56%。先進国の中では最も低い部類でしたが、直近の2019年の調査では71%を記録と、アメリカの66%、欧州の平均63%を大きく上回りました。約20年で先進国の中でもトップランクとなったのは、大きな変化です。

2つ目は透明性です。2016年に女性活躍推進法が施行され、パート・アルバイト含む301人以上の従業員を有する組織にジェンダーに関するデータの開示が義務化され、女性の活躍状況の“見える化”が推進されました。強制力はありませんし完璧な法律とはいえませんが、それでも意義は大きいと思います。

3つ目に、日本人にはあまりよく知られていないのですが、今、日本の育児休業制度の手厚さは、先進国でもトップクラスです。日本では男女双方が最長1年間の育児休暇を取得することができ、休業前の手取り額の実質約8割が保証されています。アメリカには国レベルでそのような制度はありません。取得するのはほとんどが母親で、男性はなかなか取得しないという固有の問題はありますが、制度そのものはかなり充実しています」

ダイバーシティ化は確実に進んでいる。とはいえ、改善すべき点も少なくないと松井氏は続ける。

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「いくつかありますが、まずひとつに女性の雇用者数は増えましたが、管理職の割合は欧米の半分以下の13、14%と、未だ国際的に低い水準にとどまっていることです。取締役の割合も一けた台にすぎません。とくに衆議院の女性議員の割合は10%と、これはサウジアラビアやリビアより低い数値です。私は投票権を持っていませんが、日本人の友人にこんな不透明なランドスケープの環境のもとで、本当に大丈夫ですかと聞きたいくらいです。反対意見も多いですが、日本の公的部門においては、実験的にでもクオータ制(男女の割合を予め定めて一定の比率で割り当てる制度)を採用するのも一案だと考えます。9:1の割合はあまりにもアンバランスです」

経営者からはよくこんな相談を受けるという。「松井さん、ダイバーシティーの理屈はよくわかりました。ただ、私の組織にも優秀な女性はいますが、長続きしないか昇進の機会を提案しても拒否されてしまうんです」
女性側からも、「入った会社が働きにくい環境でほかに移りたい」という声を聞く。

そういった悩みに答えるかたちで、松井氏は2020年7月に『ゴールドマン・サックス流 女性社員の育て方、教えます-励まし方、評価方法、伝え方 10ケ条』(中公新書ラクレ)を上梓した。

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「政府がなかなか介入できない組織内の問題について、ネクストステージの取り組みとして、管理職と女性社員の双方に、私が30年間学んできたことを紹介したいと思い、この本を書きました」

「日曜日の夜8時になるとどんな顔をしている?」

36歳の時には『インスティテューショナル・インベスター』誌のアナリストランキング、日本株式投資戦略部門1位を獲得。2000年にはGS社の日本オフィス初の女性パートナーに昇格した。長女も誕生し「その頃は、“I was on top of the world(私は世界の頂点にいる)”)という気持ちでした」。しかし、その翌年の2001年、家族性乳がんを発症する。

「母も祖母も乳がんを発症しています。危険なことはわかっていましたが、こんなに早いとは思っていませんでした。診断が出てからもなかなか受け入れることができませんでした」

松井氏は、アメリカで治療を行なった。「抗がん剤や放射線、できることはなんでもやりました。病院に何百回行ったかわかりません」そんな8ヵ月間の治療を終えたあと、松井氏は大きな選択を迫られる。仕事に戻るか、それとも仕事を辞めて専業主婦になるか──。

「最終的には義母の一言で復帰を決めました。義母に、“日曜日の夜8時にはどんな気持ちになるか考えてみて”と言われたんです。なるほど、子どもは大好きだし一緒にいられる時間はとても幸せですが、やはり大変なことも多い(笑)それに私は仕事が大好きです。月曜に仕事に戻れると考えると、日曜夜はやはりうれしい気持ちになるんですよね」

復帰してダメだったらやめればいいと、かつらをかぶって仕事に復帰した。

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▲2011年アジア女子大学シンポジウムにて ©️アジア女子大学

「仕事に復帰して本当に良かったと思っています。治療中はずっと病気のことばかり考えていましたが、仕事に打ち込むことで別のことを考えることができました。私にとっては仕事復帰が精神的医療になりました」

アランプレセ氏は、会社への忠誠心、そこでどう自己実現したかについても尋ねた。その質問に松井氏は、“自分にたくさんのインパクトを与えてくれた”GS社への感謝は計り知れないと答えた。

「アナリストは基本的にひとりで仕事をします。ただシニアになってくると、管理職としての仕事も入ってきます。私の場合、アジア・太平洋も責任分野で、インド人・韓国人・中国人・オーストラリア人など、さまざまな国の人を管理することになったのですが、これがとても大変で(笑)子どもが数百人いるようなもので、日々クライシスがあるんですよ。なぜ私にこんな仕事をさせるんだと思ったこともありましたが(笑)、居心地のいい仕事だけでは人は成長しません。違う筋肉を使うことは、最初は大変でしたが、その大変さを乗り越えることで成長もできました。

また、GS社は2008年に新興国の女性起業家を支援する『10,000 Women』プログラムをスタートしました。女性起業家が力を発揮し活躍できる機会を増やすために、オンラインでのビジネス教育や資本へのアクセスを無償で提供するというものですが、プロジェクトのイニシアチブのきっかけは、私のウーマノミクスのレポートだったそうです。アジア女子大学に関しても、GS社はものすごく最初の段階で、お金を出してくれました。単に働いて給料をもらうだけではなく、自分のパッションとたくさんの共通点がある会社で働けることは幸せです」

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▲キャシー・松井氏とアジア女子大学日本支援グループのメンバー ©️アジア女子大学

毎日100パーセントで走ることはできない

復帰後、欧米の経済誌のアナリストランキングの日本株戦略部門で再び1位に返り咲く。多忙な日々をおくる松井氏だが、本職と並行して、女性をエンパワーする活動にも積極的だ。アランプレセ氏は、「その情熱の源はどこから来るのか」と問いかけた。

「それまではリタイアしてから社会に貢献すればいいと考えていましたが、いつまで生きられるかわからないと思った時、そのプランはひっくり返りました。人生はいつまで続くかわからないけれど、元気でいる間に何か社会に貢献できることをしたいと思うようになったんです。それまでは仕事にウエイトを置いていましたが、病気になって、自分にとって何がいちばん大切かを考えた時、家族そして健康だと気づきました。病気になって落ち込みましたが、この経験がなければ今の私はいない、そう思っています」

家族との時間は大事にしたい。しかし、「私、ワーク・ライフ・バランスという言葉が大嫌いなんですよ」と松井氏は吐露する。その言葉を受け、アランプレセ氏も「そうですね、私たちの生活はいつもアンバランス(笑)」と笑う。

「バランスという言葉がどんなにストレスになったか(笑)仕事中は子どものことを考え、子どもといる時は仕事のことを考え、子育て中は、いつも罪悪感を抱いていました。でも、ワーク・ライフ・バランスではなく、ワークライフ均衡と考え直した日から、だいぶストレスから解放されたんです。人生にはいろいろなことが起こります。女性も男性も毎日100%で走ることはできません」

そう凛と語る松井氏は、力強く、そして、美しい。そんな彼女に、アランプレセ氏が問いかける。

「あなたにとってビューティーとはなんですか」

意外な問いかけだったのだろう。松井氏は、「難しい質問ですね」と笑い、少し時間を置いてこんな話を始めた。

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▲インタビューはオンラインにて実施された

「そうですね、自己実現はそのひとつだと思います。ひとりの人間としての人生の目的を考え、それを実現させていくこと──、夢を持つという自由なスタイルは、ビューティーのひとつの例だと思います。人は誰でもなんらかのスキルかタレントを持っています。子どもには、“あなたが生まれてきた時よりも、少しでも良い世の中にしなさい”と伝えています。わかってくれてないみたいですけど(笑)行動を起こして生きることは美しいことだと私は考えています。人生は短いです。そして、日本にいる多くの人たちは恵まれています。恵まれていない場所にいるたちをサポートする、小さなアクションを起こすのもいいと思います」

自分にも何かできるかもしれないと、話していると不思議な力がみなぎってくる。松井氏は、人を鼓舞する力を持つスーパーウーマンであり、アルファウーマンだと感じた。

Interviewer:FCAジャパン株式会社 マーケティング本部長
ティツィアナ・アランプレセ

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Text:長谷川あや

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