湘南に残る唯一の酒蔵『熊澤酒造』の終わらない挑戦

明治5年創業の熊澤酒造は湘南に残る唯一の酒蔵だ。26年前、廃業の危機に陥ったが、6代目蔵元の熊澤茂吉氏(襲名)が再生。現在では造り酒屋の枠を超え、クラフトビール醸造や、ビール酵母を利用したベーカリー、酒蔵や移築した古民家を利用したレストラン、さらには湘南地区のアーティストの作品を紹介するギャラリーの運営も行っている。24歳で造り酒屋を継いだ熊澤氏は、いかにして存続の危機にあった事業を立て直したのか。また、敏腕社長の見据える未来とは──。その答えを探るべく、熊澤酒造を訪ねた。
酒蔵を継ぐつもりはなかった
茅ヶ崎の中心部から車で約15分、JR相模線香川駅から歩いて7分。熊澤酒造は、湘南の内陸部、のどかな住宅街の中に穏やかに佇んでいる。グリーンのアーチの小径を抜けるとそこが熊澤酒造の敷地内だ。中庭を囲んで、古民家を利用したレストランやカフェ、ギャラリーなどが並ぶ。裏山の緑も眩しい。大人の楽園といったら大げさだろうか、緑あふれるその場所は、別の時空に飛び込んできたかのような、ハッピーな空気感に満ちあふれていた。
熊澤茂吉氏(襲名)氏が熊澤酒造の6代目の蔵元に就任したのは24歳の時だ。彼が1969年に生まれた当時、酒造は祖父から継いだ叔父が経営していた。父親はスポーツクラブを経営しており、熊澤氏の家族は、「現在イタリアンレストランがあるあたりに自宅を構えていました。自宅の中の一画に蔵の事務所もあり、職人さんもいました」
▲熊澤茂吉氏
酒造で生まれ育ったが、継ぐつもりもなかったし、継いで欲しいと言われたこともない。しかし、家族からのプレッシャーはなくても、周囲からのプレッシャーはあった。
「友達のお母さんに突然、『大変ね』などと言われ、何が大変だろうと思っていました(笑)。僕の息子ですらそう言われることがあるといいます。蔵元あるあるです」
早稲田大学教育学部社会学科を卒業後は、就職をせずにアメリカに渡った。
「当時、日本はバブル景気にわいていました。大学や学部のランクに合った会社に就職し、それなりの役職に就く未来に違和感を覚えました」
そして熊澤氏は「自分が何をしたいのか考える時間が欲しくて」、放浪の旅に出る。「酒蔵を廃業するかもしれない」という連絡を受けたのは、ロサンゼルスにいた時だった。家業を継ぐつもりはなかったが、「唯一の跡取り」(熊澤氏)として親族での話し合いには参加すべきだと考え、帰国を決意する。
「その際、自分で判断する材料が欲しくて、いろいろな人に意見を求めたところ、ほとんどの人に『バブルの終わった日本で日本酒は衰退産業だ。継ぐのはやめたほうがいい』と言われたんです。そう言われると、自分のルーツを否定されたようで悔しくなってきてしまって。日本が大嫌いな日本人が海外に行って、日本のことをばかにされて、自分のアイデンティティーに気付くというような、よくあるパターンです(笑)」
日本へ向かう飛行機に乗る時は、造り酒屋を継ぐことを決意していた。アメリカ放浪中に、祖父がフロリダに訪ねてきてくれたことも影響しているという。「90歳すぎの祖父は、飛行機で体調を崩しながら命がけで来てくれました。帰っていくときには涙を流していて何か感じるものがありました」
こうして「酒の知識がなく、社会経験もない」社長が誕生する。
酒の味は地域の食文化を象徴する
売上が低いなら売上を伸ばすしかないと、熊澤氏は近隣の酒屋に営業をかけた。
「社会経験がない僕にも、何軒か回れば、“あなたの酒蔵がなくなっても何も困りませんよ”といった感じで、必要とされていないことはよくわかりました(笑)。営業すれば営業するほど(価格を)叩かれました」
当時は久保田がブレイクしていた時代。「なぜ美味しい酒を造らないのか」と言われたこともあったという。そこで熊澤氏は独自のブランドを作ることを決意する。
「当時は、湘南誉という地域のお酒を下請けで作っていて、熊澤酒造の独自ブランドはないがしろになっていました。そこで、全国で通用する様な新たな独自ブランドを立ち上げることにしたんです」
熱意だけでは、いい酒は造れない。日本酒の世界には杜氏集団という制度があり、当時、熊澤酒造でも、冬の酒造りの時期だけ地方からやってくる出稼ぎの杜氏が醸造を行っていた。「いい酒を造りたいと相談をしたら、手間がかかると嫌がられました(笑)。全国清酒鑑評会での成果が地元に帰ってからの評価に繋がる彼らは、苦労して湘南の酒を作りたいと思うはずはありません」。経営者として強く要求すると、「辞めてやるよと言われました。これもよくあるパターンです」。そこで、地元で社員を募集し、ゼロから一緒に酒を造ってくれる仲間を探したところ、醸造学部出身の若い人たちが集まってきた。専門家には「ゼロからいい酒を作るには40年かかると思ったほうがいい。どんなに短くても5年は必要だ」と言われ、熊澤氏は、5年後に自社ブランを売り出すことを目標にする。
熊澤氏が目指すのは、“湘南を象徴する酒”だ。「うちは湘南で唯一残る酒蔵です。熊澤酒造が作るお酒が、湘南の食文化を象徴することになります」。
日本酒の味は地域の食文化を象徴すると、熊澤氏は語る。
「たとえば、塩辛い料理の多い新潟には、端麗辛口が合います。水のようなお酒も好まれます。煮物や鍋物をよく食べる福島などは、甘みとコクのある日本酒が主流です」
では、湘南の場合はどうなるのだろうか──。
▲『天青』
「湘南は都会的な生活をしている人が多く、場所柄、魚はもちろんですが、みなさん、いろいろなものを召し上がります。魚系を中心としつつ、いろいろな料理に対応する酒を考えた時、さわやかな余韻があってお米の味をしっかり出しつつ、すっと切れるようなものがいいのではないかと考えました」
そんなコンセプトを伝えたところ、作家の陳舜臣氏から、理想の青磁の色を雨上がりの空の美しさに例えた中国の故事“雨過天青雲破処”を教えてもらう。『天青(てんせい)』という銘柄は酒が完成する前から決めていた。
酒造りを始めてちょうど5年後の2000年、『天青』はデビューを飾る。
「最初からベストのお酒ができたわけではありません。ただそれまでのものと比べると、地元では衝撃的だったと思います」
日本酒とビール、2つの柱で困難を乗り切る
話は前後するが、熊澤酒造は、『天青』のデビュー前の1996年、『湘南ビール』を発売している。自社ブランドの日本酒を作る5年間の収入をカバーすべく、当時の解禁となった地ビール事業に着手したのだ。
「日本酒とビールの二本柱にしたいと考えました。アメリカに旅している時、いろいろな街に、いろいろなクラフトビールがあるのを目の当たりにして、地ビールという文化は、湘南という街には合うのではないかと思っていたんです」
もちろんノウハウはない。最初の酒造りが終わると、熊澤氏はドイツに飛び、現地の求人広告で一緒にビールを作ってくれる人を募集した。そこで応募があったドイツ人と2人で、ドイツ中を旅しながら、どういうビールを作るべきか、どんな設備を導入すべきかを検討した。
「全国的に見ても湘南に似た地域はなかなかありません。湘南と酒蔵、両方の文化を表現するビールを作りたいと、ドイツの各地でビールを飲みながら、作りたいビールのイメージを固めていきました」
▲左から『ピルスナー』、『大仏ビール(シュヴァルツ)』、『江ノ島ビール(アルト)』
日本は第一次クラフトビールブームの真っただ中。「もの珍しさからか最初の2年はよく売れたのですが、その後、低迷期に入り、10年くらい前にIPAが流行したことでまた売れ行きが上がっています」。現在では、季節限定の商品、湘南産の商品とのコラボレーションをはかったものなど、年間約50種類のビールを製造している。
▲左から『妻ビール(ゴールデンエール)』、『IPA』、『サマーオレンジエール』
営業部門を廃止。製造に関わった人が売りに行く
約1000坪に及ぶ敷地内には、酒造場とクラフトビールの醸造所のほか、『蔵元料理 天青』、イタリアン『MOKICHI TRATTORIA(モキチ トラットリア)』、自家製ハム・ソーセージ工場を併設した『mokichi wurst café(モキチ ヴルストカフェ)』といった3つの飲食店と、パン屋である『mokichi baker & sweets(モキチ ベーカー&スウィーツ)』、さらには、工芸品や家具、雑貨を扱う『okeba ギャラリー&ショップ』が軒を連ねる。週何回かは、地元農家の野菜を売るマルシェが立つ。さながら、熊澤ワールドだ。
▲MOKICHI TRATTORIA
▲okeba ギャラリー&ショップ
誕生のきっかけは、『湘南ビール』だった。酒蔵の敷地内に直売所を設け、試飲販売を行ったのだ。
「天青の立ち上げ後、社内の営業部門を廃止しました。お酒ができあがったら、杜氏が直接、特約店に出向いています。ビールも、製造にかかわったスタッフが、置きたいといってくれた店舗に持っていきます。営業マンは、優秀な人ほど必死に売り込んでしまうじゃないですか(笑)。でも製造にかかわり、お酒に愛着のある職人やスタッフにとっては、売上は関係ありません。どの店でもいいというわけじゃなく、本当に信頼できる人に売ろうとします。長い目でみればそのほうがいいと考えました」
営業部門をなくしても、「最低限生きていけるように」(熊澤氏)と、酒蔵の敷地内で直売所をオープンした。これが現在の熊澤酒造の原点だ。
「酒蔵を改造し、気に入ったら買っていってくださいというテイスティングルームのようなものを作りました。食事も最初は出来合いのソーセージをチンして出していたのですが、せっかくならきちんとやりたいと思って料理人を雇うことにしました」
ビールを作る過程でロスする沈殿物を生かしてパンを作り始めた。やがてソーセージも自分たちで作るようになる。天青のデビュー後の2001年には和食店もオープンさせる。
▲蔵元料理 天青
提供する料理のコンセプトも“湘南のカルチャー”だ。そして、熊澤酒造にふさわしいものであることにもこだわっている。
「このあたりに住む人の生活の拠点は東京です。東京との距離感を大切にしつつ、ただこのあたりに住む人は、ドレスダウン志向があり、週末はネクタイを締めずにラフに過ごしたいと考えている人が多いんです。田舎ではないけれど、東京のような緊張感があるわけでもない、そんな文化を心地よく感じています。料理も手の込んだものというより、シンプルなものをカジュアルな値段で提供したいと考えています」
出荷が止まった期間を利用して新たな取り組みをスタート
さまざまなことに着手し、それを確実に実現している。そんな熊澤氏が見据える未来とは──?
「今力を入れているのは米造りです。もともと、このあたりは一面、田んぼで、自分たちでお米を作り、酒を造っていたと聞いています。それが今はほとんど残っていません。湘南地区に水田を少しでも取り戻せたらと思っています。10年後には酒造りに使うすべてのお米を地元産のもので賄うことが目標です」
今年、熊澤酒造では農業部門を設け、米造をスタートした。
「地域の農家さんにも、酒米を作ってもらえるように声をかけています」
壮大な夢に思えるかもしれない。ただ、熊澤氏が継いだ時、この土地には一本の木も生えてなかったという。しかし、四半世紀の時間をかけ、ふんだんな緑に覆われた、オアシス的な場所ができあがった。そして、きっと“熊澤ワールド」はさらに進化を遂げていくことだろう。
「コロナ禍で、一時、お酒やビールの出荷が止まりましたが、時間ができたぶん、米造りにも取り組めたし、ジンの材料となるジュニパーベリーの栽培も始めることができました。昨年買った、蒸留器も活用したいと思っています。お酒というのは面白いもので、ビールを蒸留するとウイスキーに、日本酒を蒸留すると焼酎になるんです。コロナのおかげで誕生する商品も出てきそうです(笑)」
そういって、熊澤氏は鷹揚に笑った。
※ソーシャルディスタンスを保ち、安全に十分に配慮したうえで取材を行っております
熊澤酒造
住所 | 神奈川県茅ヶ崎市香川7-10-7 |
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TEL | 0467-52-6118(本部) |
HP | https://www.kumazawa.jp/ |
ONLINE STORE | https://kuma.shop-pro.jp/ |
Text:長谷川あや
Photos:高見知香