1万年後まで続く未来の遺跡「江之浦測候所」、杉本博司が描くものがたりとは?

写真家で現代美術作家の杉本博司が手がける複合文化施設、小田原文化財団 江之浦測候所とは?
2017年10月9日、日本を代表する現代美術作家・杉本博司(すぎもと・ひろし)が、「ここから見える海景は、子どもの頃に見た私の原風景」と語る、神奈川県小田原市の相模湾をのぞむ見晴らしの良い丘に、「構想10年、工事10年」の歳月をかけ、“自らの集大成となる作品”と表現する『小田原文化財団 江之浦測候所(えのうらそっこうじょ)』(以下、『江之浦測候所』)をオープンした。
“世界や宇宙と自分との距離を測る”測候所
本当にこの道で合っているのだろうか。車で初めて訪れる人は、急峻な斜面がつづら折りのように続くその道のりにちょっとした不安を覚えるかもしれない。『江之浦測候所』が位置するのは、もともとはみかん畑だった場所だ。最寄駅はJR東海道線唯一の無人駅、根府川駅。そこから徒歩40分ほどの丘の上の、周囲にはやはりみかんの木々と民家があるのみの、9,496㎡にも及ぶこの地に、杉本はその集大成となる『江之浦測候所』を誕生させた。杉本は、人類とアートの起源に立ち返り、国内外への文化芸術の発信地となる場として『江之浦測候所』を構想したという。
杉本がその「文化芸術の発信地」として、小田原を選んだのには、明確な理由がある。
「私は小田原に負うところが多い。子供の頃、旧東海道線を走る湘南電車から見た海景が、私の人としての最初の記憶だからだ。熱海から小田原へ向かう列車が眼鏡トンネルを抜けると、目の醒めるような鋭利な水平線を持って、大海原が広がっていた。その時私は気がついたのだ、“私がいる”ということを」
そして杉本はこう続ける。「私は何ものかに導かれるように、その私の記憶の場所を与えられた。江之浦に広がる広大な蜜柑畑だ。私はこの地に小田原文化財団を設立した。この地から世界に向けて、日本文化の精髄を発信しようと企てている。世界への日本文化発信の首都として、小田原が将来位置付けられることを期待している」と。
杉本博司──。彼の肩書きを一言で表現するのは難しい。現代美術作家としてだけではなく、建築家、さらに文楽の総合監督、骨董品の蒐集家など、さまざまな顔を持つ。
杉本博司氏
そもそも『江之浦測候所』とはいったいどんな施設なのか──。ギャラリー? 美術館? 現代建築? 疑問を持つ人は少なくないはずだ。そして、実際に足を運んでもその答えは出ないかもしれない。人それぞれ解釈も異なるだろう。『江之浦測候所』は、杉本自らが敷地全体を設計した壮大なランドスケープだ。ギャラリー棟、野外の舞台、茶室などで構成され、人類とアートの起源に立ち返り、国内外への文化芸術の発信地となる場として構想した。そう、ここは、ギャラリーでもあれば、美術館でもあり、現代建築でもある、杉本が造り出した、そして、類い稀なる景観を保持し、四季折々の変化を肌で感じることができる江之浦の地とともに共存する、アート空間なのだ。
ちなみに、“測候所”は、英語では“Observatory”、本来は定時の地上観測や地震観測、火山・潮位の観測,気象観測などを行う場所のことを言う。「いったい何を測候する場所なのか」という問い合わせもあるそうだが、『江之浦測候所』はあくまでも、自然、そして、天空を展望するための場所だ。“世界や宇宙と自分との距離を測る場”としての意味もあり、杉本の洒脱さが見え隠れする。
現在の建築面積は789㎡(“現在の”というのは、まだ建設途中の場所もあるためだ。今後も進化を続けていく)。東洋のリビエラとも称される相模湾を見下ろす広大な敷地の中には、ギャラリー棟、光学ガラスでできた「光学硝子(こうがくがらす)舞台」と石舞台、千利休の「待庵」を写した茶室、長年収集した銘石を配した庭園など、さまざまな目的の、さまざまな時代の建築・アート作品が点在している。また、これらの建築物は日本建築史を通観するものとしても機能しており、そのひとつひとつがストーリーを有している。
たとえば、ここを訪れた人が最初に足を踏み入れることになる「待合棟」。なにげなく通り過ぎてしまいそうだが、中央のテーブルには樹齢1000年を超える屋久杉が使用されていて、高野山の大観寺にあった水鉢が支柱となっている。
待合棟
待合棟の外にぽつんと置かれた井戸枠は、北大路魯山人が旅の途中で買い求め、その後、小林秀雄が所蔵した、古信楽だ。鎌倉の建長寺派明月院の正門として建てられた「明月門」が鎮座する。近年は根津美術館正門として使用されていたが、建て替えに伴い、寄贈され、再建された。
明月門
古代ローマ円形劇場遺跡を実測して再現した硝子舞台「光学硝子舞台」の観客席からは水平線を借景に、舞台を見ることができる。演能の上演も予定されているそうだ。床下は釘を一本も使わない、京都・清水寺と同じ、懸造り(かけづくり)と呼ばれる工法で組まれている。
硝子舞台「光学硝子舞台」
釘を一本も使わない、懸造り(かけづくり)で組まれている。
太陽の軌道を建築に取り込んだ“人類とアートの起源”
『江之浦測候所』は、“人類とアートの起源”をテーマに掲げており、冬至や夏至の光など、太陽の軌道を積極的に建築に取り込んでいる。「太陽の軌道変化に、人類は死や再生を意識しはじめたのだろう」と、季節ごとの太陽光の照射を計算し、至るところにその仕掛けを施した。
杉本は言う。「悠久の昔、古代人が意識を持ってまずしたことは、天空のうちにある自身の場を確認する作業であった。そしてそれがアートの起源でもあった」
そして、天空を“測候”し、人類が、冬至、夏至、春分、秋分を節目として生きていた原点にもう一度立ち戻る、そこに未来へ通じる糸口が開かれている、と。海抜100メートル地点に建つ全長100メートルのギャラリー棟「夏至光遥拝(げしこうようはい)100メートルギャラリー」では、現在、杉本の「海景」シリーズが展示されている。
杉本博司「海景」Sea of Japan, Oki 1987 ゼラチン・シルバー・プリント ©Hiroshi Sugimoto /Courtesy of Gallery Koyanagi
冬至に朝日が昇る方角に向かって一直線に作られた「冬至光遥拝隧道(とうじこうようはいずいどう)」は、70メートルに及ぶ鋼鉄製の隧道(トンネル)だ。1年で最も日照が短い冬至は、死と新たな命が再生する節目とみなし、人類の最も古い記憶という考えをもとに製作された隧道で、冬至の朝には、水平線から昇る陽光が隧道の奥まで差し込むように設計した。
冬至光遥拝隧道
隧道の途中には採光のための「光井戸」があり、ガラスの欠片が敷き詰められている。天井は開口しており、雨の日には雨粒が落ちて行く様子が目視できるという。敷地の中ほどにある石舞台の石橋の軸線もまた、春分・秋分の朝日が相模湾から昇る軸線に合わせて設定されている。
光井戸
千利休作の「待庵」を写した茶室の屋根には、この敷地に残されていたみかん小屋の錆びたトタン屋根を配した。「雨聴天」という茶室の名前は、“トタン屋根に響く雨音を聴く”というところから来ている。また、春分・秋分の日には、日の出とともに、太陽の光がにじり口から茶室の室内を射抜く。
茶室
古墳時代から現代まで、時代を超えた貴重な石の宝庫
また、『江之浦測候所』では“石”が重要なファクターとなっている。聖徳太子も目にしたかもしれない、法隆寺若草伽藍の礎石は、開館直前に杉本が入手したものだ。ほかにも敷地内には、京都市電の軌道敷石、フランス旧家の階段に使われていたものなど、時代も種類も異なるさまざまな石に出会うことができる。地元・根府川石丁場から採取された石もある。もともと小田原周辺は古くから石の名産地で、江戸城の石垣もこのあたりの石を切り出して運んでいたのだとか。東京(北東)方向を向いて置かれた亀石も印象的だ。
京都市電の軌道敷石
石舞台への橋がかりには福島の滝根石が使用されている。茶室の入口の石造は、山形県小立部落にある石鳥居に準じて組み立てたものだ。案内してくれたスタッフは、「ここにいらっしゃると帰るときには、みなさん、ちょっとした石フェチになっているんですよ」と教えてくれた。そうなのだ、『江之浦測候所』に足を踏み入れると、古の人々が神が宿るとして尊んだ“石”が、これほど力強く、そして、表情豊かな存在であったことを再認識させられる。
石舞台
根府川石丁場から採取された石
東京(北東)方向を向いて置かれた亀石
杉本が「将来、遺跡になることを想定して建設した」という『江之浦測候所』は、もはやその存在そのものが、アート作品といってもいいかもしれない。杉本が描くものがたりをひとつひとつひもといていくのも、建築・アートを分析するのも一興。硝子舞台の観客席に腰をかけてただ海を眺めるのも至福の時間となるはずだ。建築やアートに明るくなくても存分にそのスケールを堪能できる『江之浦測候所』は、まだそのヴェールを脱いだばかりだ。
現在、ニューヨークに拠点を置く杉本だが、『江之浦測候所』のオープン後、日本に滞在する機会が増えたという。杉本の“集大成”である『江之浦測候所』はまだ開発途中だ。彼の目指す「1万年後まで続く、未来の遺跡」は、これからどう変化していくのか。──それを見守っていけることができるのはとても幸せなことではないだろうか。
小田原文化財団 江之浦測候所
住所 | 神奈川県小田原市江之浦362-1 |
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TEL | 0465-42-9170(休館日を除く10〜16時) |
見学時間 | 1日2回:午前の部(10時~13時)、午後の部(13時30分~16時30分) 7月8月限定:夕景の部(17時~19時)(各回定員制) ※各回すべて完全予約の定員制、公式サイトより要予約 |
休館日 | 火・水曜日、年末年始、および臨時休館日 |
入場料 | インターネットから事前にご購入の場合 午前の部、午後の部:3,000円(税抜)/ 夕景の部:2,000円(税抜) 当日券をご利用の場合 午前の部、午後の部:3,500円(税抜)/ 夕景の部:2,500円(税抜) ※中学生未満入館不可 |
URL | www.odawara-af.com |
Text:Aya Hasegawa
Photos:YosukeKAMIYAMA