episode 5Giulia Super

STORIE Alfa Romeo Episode 5

− “風がデザインしたクルマ” −Giulia Super(1962)

戦後、1900で量産メーカーへと舵を切ったアルファ ロメオは、ジュリエッタの登場で、さらなる躍進を果たす。当時、経営の采配をとっていたのは、ジュゼッペ・ルラーギだった。ミラノ生まれ。ボッコーニ大学で学生時代を送っていたルラーギは、ボクシングに“アート”の魅力を感じ、練習に勤しんだ。再建中だったアルファ ロメオの経営指揮をとる以前は、ピレリで長年マネージメントの経験を積んでいた。1951年から1958年には国営の産業復興公社IRIの工業製品部門「フィンメカニカ」のゼネラルマネージャー、その後ラネロッシ(イタリアの紡績会社)を経て、1960年にアルファ ロメオの社長に就任、1974年までその職を務めた。

ルラーギは、有能な経営者であるだけでなく、ライター、ジャーナリストとして活動し、社内サークルでは文化活動に率先して取り組んだ。1953年、ルラーギはイタリアの著名な詩人、レオナルド・シニスガッリと共に、文化や科学、アートなど幅広いジャンルを網羅した雑誌を主宰している。アルファ ロメオ時代には、社内報『Civilization of machines(機械の文明)』を発行。イタリアの著名な詩人であるジュゼッペ・ウンガレッティや作家のカルロ・エミリオ・ガッダに寄稿を依頼し、高い評価を受けた。

アルファ ロメオにやってきたルラーギは、エンジニアのルドルフ・ルスカやフランチェスコ・カローニに大規模生産に向けた再編を求め、車作りの根本的な改革に踏み切った。同時に、モータースポーツで数々の成功を積み上げ、何百万人もの人を夢中にしてきたアルファ ロメオの注目度の高さを、ブランドの強みとして商業的な成功に結びつけることに尽力した。その時代、イタリアは経済成長の最中にあり、車は人々にとって憧れの的だった。ルラーギは、アルファ ロメオを所有するということを、人生の成功の証として結びつけようとしたのである。

富裕層向けのクルマから、誰もが欲しがるクルマへ。それを念頭にアルファ ロメオは、デザインや技術を吟味した。こうして誕生したのがジュリエッタである。この車は、アルファ ロメオがそれまで培ってきた技術の探求やレーシングスピリットを守ったうえで、生産台数を大幅に伸ばすことに成功した。ジュリエッタは大ヒットし「イタリアの恋人」と呼ばれるまでの存在となり、その販売台数は累計17万7000台以上に達した。

成功したモデルの後継車を作るのは困難とされる。ジュリエッタに代わるモデルの開発を担当したサッタ・プリーガもそのことは重々理解していた。彼のチーム(ジュゼッペ・ブッソ、イーヴォ・コルッチ、リヴィオ・ニコリス、ジュゼッペ・スカナティ、テストドライバーのコンサルヴォ・サネージ)は、時代を先取りした車の開発に取り組んだ。

こうして1962年誕生した最初のジュリア スーパー(Giulia Super)は、様々な革新的メカニズムが取り入れられていた。車体には、その時代としては数少ない衝撃吸収ボディを採用。フロントとリアにクラッシャブル構造を取り入れる一方、キャビンは乗員を保護するために非常に強固に作られていた。安全対策が法規化されるよりはるか前に衝撃吸収ボディに着眼していたのである。

エンジンは、排気量1.6リッターのツインカムを搭載。ジュリエッタが搭載した1.3リッターの進化版で、冷却性を高めるナトリウム封入式の排気バルブを新たに採用した。

デザインも革新的だった。ジュリア スーパーは、サイズはコンパクトだったが、独特なプロポーションで個性を発揮した。フロントは低く設定し、リアはテールエンドを切り落としたようなスタイルとした。開発段階で風洞実験を取り入れた結果、ジュリア スーパーの空気抵抗係数は0.34と当時としては卓越した数値を達成。発売時には、“風がデザインしたクルマ”というキャッチコピーでその空力ボディがアピールされた。

スーパーをはじめとするジュリア シリーズは商業的にも大成功を収め、累計販売台数はジュリエッタの約3倍に相当する57万台を達成。ジュリアはイタリアのアイコンとして、その名を刻んだ。

アレーゼのアルファ ロメオ歴史博物館には、“映画の中のアルファ ロメオ”というコーナーが設けられている。そこではアルファ ロメオが登場した作品の一部として、「警察映画」が紹介されている。アルファ ロメオは数々の警察映画のスクリーンを彩り、ファンから絶大な人気を得た。この種の映画では、窃盗団と警察のカーチェイスが繰り広げられるのが通例だが、ジュリアはその両方を演じることさえあった。

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